関景考

互いにかかわり合うモノゴトを、その中にいて俯瞰するように眺め、知覚すること ー「 関景」を考える。

2018年の暮れにギャラリー睦に集まった3作家は「風景」を描く作家たちである、と言い切っても良いだろう。
その描かれる「風景」とは何なのか。

それらの画面には、表面的にはどこかの景色の断片のようなものは見えるし、実際にモチーフとする場所や構造物、情景などもそれぞれにあるのだろう。
しかし彼らは、その景色を描いているのではなく、そこにある要素や物事の成り立ちを、もっといえばそれらの関わり合いの織り成す状態としての在り方を、その時々の情景として表出している。それらのある種の俯瞰的で固定的でない視線が、そのことを「風景」として創り出しているのだ。
それは「世界」である。かかわりの中で常に遷移する状況の中にあるモノゴトの、一瞬の観測ではなく、関わりそのもの、遷移そのものという形のないものを描く。

私たちがそれの観測者となり得ないのは、私たち自身がその中に存在しているという解決しえない構造ゆえのことである。世界と隔離された傍観者にはなり得ないがごとく、モノゴトを俯瞰する視点というのは私たちの概念の中にしかあり得ない。関係性の中に身を置き、その相関性を(積極的にしろ消極的にしろ)意志的に認識するその在り方が世界を創っている。そこに空間が、質が生まれ、それが世界を示し、そしてそれが「風景」なのだ。

量子的にかかわり合う状態(=セカイ)を読み解き、フウケイとして表現する(=意志的に存在する)作家たちの作品に、どのような「風景」を共有することが出来るだろう。

 

オープニング・レセプション
2018年12月15日(土)16:30〜

寛容な線たち – 創生する形象

寛容な線たち

ひとつの線が不寛容に世界を分けていきながら、同時に世界を寛容に創生していく。 それそのものがなにかであってもなにかでなくても良いことの狭間を揺蕩いながら、緩やかに世界という被膜 をまとってゆくそのプロセス自体には、世界の存在における本質とも呼べるような在り方が潜んでいる。 様々な材質と表情を持つ線たちが躍動し、集積し、痕跡を残し、埋もれ、放擲され、それぞれの持つレイヤー を浸蝕しあう中で描き出されるものたち。そこには寛容な線たちの織り成す関わりの形象が立ち現われる。

Media & Art Day to day

一日一日は、ゆっくりと流れていて、ひとりひとりを見つめています。 その言葉にしにくい豊かさは、わたしたちをいつも支えています。 目には見えないメディアに導かれて、それらが現れるのを待っています。