西村陽平『みちのアトリエ』

「みちのアトリエ」は、西村陽平を代表として有志の方々により、2023年夏に立ち上げられた絵画ワークショップを行う団体です。
対象は、障がいを持つ人、子どもなどです。
心を、からだを解放して生まれた作品は、新鮮な感動を覚えます。

多義性、もしくは曖昧さのリアリティ

ことばは、そしてあらゆる事象やものごとも、ひとつだけの限定的な意味を持っているわけではない。それらは自ずから多義性を持っており、多義的なままに3次元的な構造を持っている。

一般的な意味での伝達ということにおいては、それが何を指しているかというレベルでの共通認識が必要であることは疑いようもないことではある。それの指し示すものごとを一対一で対応させることによってそこで初めて名称や意味が生まれるのであるし、その対応精度を高め、共有率を上げることによって表層的(実用的)には意味が正確に用を成すことになる。
しかしそれでは正確であろうとするほど、精密に一対一で対応することばを際限なく生み続けることになり、その行先は固定的な対応関係が散らかりながら結果的に、総体的に無意味さを堆積させていくということになる。(それはそれで芸術として成立するかもしれないが)
畢意、私たちはことばと意味とものごとの相互関係をひたすら平面的に広げていくだけではなく、限られたエリアに立体的に重層性を持ってそれらを構築せざるを得ない(とはいえそれは建築的な整合性、合理的秩序を持たない)。しかしてそれに対して誠実であろうとすればするほど複雑に多義性を含み、厳密な一点に収束するように向かいながらも同時に広がりを持つものとなる。

多義的なままに重層的に集積され構造されるものにおいては、それをどの層のどの位置のどの向きのものとして捉えるかで、対象とするものの意味はもちろんのこと、それの全体の様態をも変えてしまう。ちょっとしたこと、ほんの僅かな変化や微細な要素の微かな揺らぎが、構造的にも意味的にも大きく影響し、表層的には同じように見えるものであっても、時には正反対ともいえるような意味や感覚、存在を表出する。
それらの意味・感覚が相互にかかわりあう成り立ちの複雑さは、3次元的に交差する中で互いに影響し干渉しあいながら包括しあうような入れ子状態の相互性によって、感覚が定位されないまま静謐に劇的な化学反応を起こしながら自らを造形している。その内部では互いの軋轢(あるいはぎこちない融合)によって歪められた意味や、それらが表しようとしているものへの囚われと抗いを行き来しながら、しかしそれゆえに新たな地点に辿り着く(かもしれない)ことの不安の稜線ギリギリを探り歩くような感覚が渦巻いているだろう。

そういった成り立ちの、多義性に富むが故の総体としての曖味さという実存。それこそがこの世界の在り様そのものではないだろうか。その中にあって表現することとは、それらを微細な振動を伴いながら浸潤するように透過する行為を経て、そこに埋もれているもののわずかな輪郭を描き出すことだと言えよう。
だからこそ、なにかひとつのことを深く探り進むことの先には、その世界の全体を貫き捉え得るものが出現する可能性が待っている。

『線が触覚を触発する』

ギャラリートーク&オープニングパーティ:12月2日[土]16:00〜
宮田徹也(日本美術思想史)と出品作家によるトーク

視覚空間と触覚空間(あるいは触覚的意味)は全く別で異質のものであり、その間にはいかなる空間的関係も存在しない、とする論がある。
しかし、視覚空間(見る見ないにかかわらず視覚的に見えるものすべて)の中で身体的感覚を定位することができるのであれば、その感覚的身体を起点に双方の空間は接合され、それらはひとつの知覚的風景として私たちとともに存在することになるであろう。
実際に私たちの視覚と触覚は、身体的感覚経験によって連動して在ることの実感を得ている。

目の前の1本の線は何かの痕跡であり、運動の軌跡であり、境界であり、形態の片鱗でもあり、またそうあろうとしているものとして立ち現れる。
線は機能としてのパーツであるときにはその重なりと分断によって位置を示唆するものとなり、構成要素として調和と構築、その歪みをも作り出し、タッチとしてテクスチャーや材質感、情感を伝えることにも寄与するだろう。また遠近法に代表されるような視線の誘導効果を示すという流れや方向性を生み出す機能も持っている。
線はそこに定着すると、いや未定着で浮遊し続けている時でさえも、ひとつの境界を生み出すとともに形態への示唆を含む運動性を発揮する。
それは描かれた線だけではない。ひっかき傷としての線も、輪郭としての線も、エッジとしての線も、折りたたまれた痕跡も、断面も、皺も。
すべての「線」は、物体や空間の形態や構造を定義することに加えて、それ自体が触覚の触発作用をもった「質」として立ち現れている。
身体的感覚が視覚空間と触覚空間を接合していくように、線も視覚と触覚を緊密に結びつけていく。

すべての、あらゆる線たちが私たちの触覚を触発し、そこに質としての存在が知覚的に立ち現れている。
ギャラリー睦に集う3人の作家がそれぞれの触覚を触発する線をめぐってどのような質感を出現させるのだろうか。

ギャラリー睦での「線が触覚を触発する」展の連動企画として、アトリエmoon/ギャラリーわらねにて、同じく出射・宇野・坂本の3作家の旧作、小品を中心とした「色が感覚を拡張する」展および関連イペントを同時開催いたします。色が感覚を拡張する一ここでいう色・色彩とは、原色やそれに近い明解な色彩だけを差すのではなく、主に明暗のニュアンスに含まれるような、わずかな色味のことを意味しています。その微かなありかた、立ち現れかたが(微かであればあるほど)、私たちの感覚を拡張してくれるともいえるのではないでしょうか。

 

 

関連企画(同時開催):色が感覚を拡張する

11月4日(土)、11日(土)、18日(土)、25日(土)、12月2日(土)、9日(土)
※土曜日のみオープン 11:00〜16:00

アトリエ Moon/ギャラリーわらね
〒270-1615 印西市師戸78
TEL:045-69-127
E-mail:ateilermoon78@gmail.com
わらねへの交通についてはこちらのアドレスにお問い合わせください。

作品と製品の展示

笠間と益子の焼き物作家の作品と、それを展示する空間の展覧会です。

手作りの焼き物を大別すると表現するための作品と、日常生活の用に供するための製品に分けられますが、展覧会においては画一的に鑑賞する空間が置かれます。
今回の展示会は「展示」そのものに着目し、個々の焼き物の可能性を探る目的で開催いたします。

※展示期間を2021年3月24(水)まで延長しました。

西村陽平と子どもたち展

西村陽平は、千葉県立千葉盲学校で23年間図工を担当し、その後日本女子大学児童学科で15年間美術教育に携わってまいりました。大学在職中、附属豊明幼稚園と附属小学校の子どもたちとワークショップを行ってまいりました。ワークショップで行われた方法は、遊びのような活動からアートの創造的な経験へと導いていくものでした。教え込むのではなく自然とそのようになるように、環境を整えてきました。そのことにより、子どもの潜在的な可能性を最大限に引き出そうという試みでした。

西村は、美術の教育者であるとともに、自らも制作活動を行い、1977年には「第4回日本陶芸展」において外務大臣賞を受賞しました。
長年にわたる制作活動により、その作品はパリ装飾美術館やビクトリア&アルバート美術館などの内外の美術館に収蔵されています。

本展では、子どもたちの作品と西村の作品を展示することにより、西村陽平の世界を紹介するものです。

河津天太 × 豊泉朝子

オープニング・パーティー
2019年10月6日[日]15:00〜

街商バーリンさんの 1dayカフェがオープン! 珈琲を淹れる合間にゼンマイ式の蓄音機を使って、二十世紀前半を彩った様々な音楽をかけます。
皆様、是非お誘いあわせの上、ご来場賜りますようご案内申し上げます。

あること と ないこと の はざま

オープニング・レセプション
2019年9月21日[土]16:30〜

出展作家概要

入佐 美南子
「生命の根源、存在、神秘」をテーマとして、油彩を中心にコラージ1などミクストメディアの手法による絵画表現の制作を行っている。
様々な生命体の根源を考えると、その成リ立ちや構造に不思議な魁力と神秘を感じる。変容する細胞の形成、生成はイメージの増殖を与えてくれ、 そのイメージの形象をもとに、生命体の神秘を感じさせる画面構成の構想が広がる。様々に変容する細胞を生命のエネルギーの根源として、空間に生命体が浮遊している状態や、細胞の中に入リ込んだような異空間を表出したいと思う。

宇野 和幸
在るとも、無いとも断定できないものたちが世界を構成している。それは気配、あるいはその痕跡として流動的に互いに関係しあうものだ。そこにあるものをこそ私たちは認識し、想像し、体験する。多対多で相互に関わリ合う状態を観察する観測点が私(たち)なのだ。世界は気配として存在する。 その気配の、形とは呼べないようなかたちを、その触覚を、手探リで追い続けたいと思っている。

萩原 宏典
初期よリ抽象的な絵画を描いている。
自然の摂理・リズムをテーマにした『タイドグラフ』シリーズを経て、画面を構成する線の延長として様々な索材の棒を画面に貼リ付けた『スティックムーブス』シリーズを制作した。その後は純粋に造形要素の構成と視覚生理の視点から、垂直線と水平線と直角を排除した構成で平衡感覚への刺激を試みた、三角形のシェイプトキャンパスによる『均衡のパラドクス』シリーズを経て、ここ数年はクオリア(感覚質)の記憶をテーマに作品を制作している。
自然の中に一人でいる時にしか感じない様々な感覚や、目を閉じた時に瞼の裏に浮かぶ記憶の融合が作品の源となっている。

関景考

互いにかかわり合うモノゴトを、その中にいて俯瞰するように眺め、知覚すること ー「 関景」を考える。

2018年の暮れにギャラリー睦に集まった3作家は「風景」を描く作家たちである、と言い切っても良いだろう。
その描かれる「風景」とは何なのか。

それらの画面には、表面的にはどこかの景色の断片のようなものは見えるし、実際にモチーフとする場所や構造物、情景などもそれぞれにあるのだろう。
しかし彼らは、その景色を描いているのではなく、そこにある要素や物事の成り立ちを、もっといえばそれらの関わり合いの織り成す状態としての在り方を、その時々の情景として表出している。それらのある種の俯瞰的で固定的でない視線が、そのことを「風景」として創り出しているのだ。
それは「世界」である。かかわりの中で常に遷移する状況の中にあるモノゴトの、一瞬の観測ではなく、関わりそのもの、遷移そのものという形のないものを描く。

私たちがそれの観測者となり得ないのは、私たち自身がその中に存在しているという解決しえない構造ゆえのことである。世界と隔離された傍観者にはなり得ないがごとく、モノゴトを俯瞰する視点というのは私たちの概念の中にしかあり得ない。関係性の中に身を置き、その相関性を(積極的にしろ消極的にしろ)意志的に認識するその在り方が世界を創っている。そこに空間が、質が生まれ、それが世界を示し、そしてそれが「風景」なのだ。

量子的にかかわり合う状態(=セカイ)を読み解き、フウケイとして表現する(=意志的に存在する)作家たちの作品に、どのような「風景」を共有することが出来るだろう。

 

オープニング・レセプション
2018年12月15日(土)16:30〜

寛容な線たち – 創生する形象

寛容な線たち

ひとつの線が不寛容に世界を分けていきながら、同時に世界を寛容に創生していく。 それそのものがなにかであってもなにかでなくても良いことの狭間を揺蕩いながら、緩やかに世界という被膜 をまとってゆくそのプロセス自体には、世界の存在における本質とも呼べるような在り方が潜んでいる。 様々な材質と表情を持つ線たちが躍動し、集積し、痕跡を残し、埋もれ、放擲され、それぞれの持つレイヤー を浸蝕しあう中で描き出されるものたち。そこには寛容な線たちの織り成す関わりの形象が立ち現われる。

Media & Art Day to day

一日一日は、ゆっくりと流れていて、ひとりひとりを見つめています。 その言葉にしにくい豊かさは、わたしたちをいつも支えています。 目には見えないメディアに導かれて、それらが現れるのを待っています。